夜・文章講座、第2回課題の例文。2011/07/04 21:56

夜・文章講座
ストーリーテリングを考えるⅢ―物語の話型論
講師 葉山郁生(作家)

第2回 7月11日(月)午後6時30分~

●玉(宝)探しと自己成長の話
●教材=『源氏物語』「明石の巻」「玉鬘の巻」(古典原文または各種現代語訳)

    *    *

●課題=1回目の「水の女」の話を取りこんだエッセイ・小説の一節

 二回目課題の「水の女」の話を取りこんだエッセイ・小説の一節については、一回目に講義したとおりです。津島佑子さんの「水府」が一例で、一回目未受講の方は、文校でコピーをとるなどして下さい。
 ここで、簡単な紹介をしておきます。
 話型論の一つとして「水の女」は、世界文学の広がりがあるもので、西洋ではオンディーヌなどがあり、日本文学では折口信夫の「水の女」が代表例です。神の子ないし英雄が禊ぎをする際に水を司って奉仕する女性のことを言います。傷ついて救済を求める、転落した貴種や英雄が、水の女の浄化力により救済されるというものです。柳田国男の「妹の力」とも関係すると、前回講義で紹介し、水の原初的イメージが濃厚です。
 ここでは、「水府」ではなく、前回紹介した、吉本ばななの「白河夜船」の一節を課題例として掲載しておきます。不倫相手の中年男の妻は寝たきりで、若い女性主人公は水辺で男と花火を見ます。自身が「波イメージ」になって、相手の男も救済していく、という中篇小説の最終部です。


 彼はけげんそうにそう告げた。
「……やっぱり」
 と言った私の目には、突然、涙がにじんだ。自分でもわけのわからない涙だった。それより、と言って彼が花火とうなぎの企画のための待ち合わせ場所を告げる声を聞きながらメモを取る手元も、部屋中も、熱くにじんでぼんやりと明るく、光って見えた。

 川べりへと向かう、だだっ広い大通りはすでに車両通行止めになっていた。人々は皆、通りいっぱいに広がり、川のほうへ、花火のほうへと歩いていた。浴衣(ゆかた)を着て、子供に肩車をして、笑いさざめきながら幾度も空を見上げ、まるで祇園祭(ぎおんまつり)のように皆が同じ方向へ流れていた。このような景色を見たことがなかったので、なんだか気持ちが急いだ。見上げる空にいつ花火が開くかという期待感に満ちた人々の顔は、とても明るく見えた。
「こりゃあ、やっぱり川まで行かれないな。見てみな、ぎっしりだよ」
 がっかりした口調で彼が言う、その汗をかいている横顔を見上げる。
「いいわよ、少しくらい見えるでしょう?」
 私は言った。
「高い所でないと、だめかもしれないぞ」
「いいわよ、音が聞こえれば」
 背伸びをして見てみると、橋を渡る行列ができ、たもとは黒山の人だかりだった。濃い藍色(あいいろ)に沈む夜空がやけに広かった。警官が闇(やみ)に立ち、ロープに押されるように人々は進んだが、私たちはその行列の手前で立ち止まった。
 大切なのは花火ではなく、この夜、この場所に一緒にいる二人が同時に空を見上げることだった。腕を組み、そのへんにいる人たちと同じ方向に顔を上げ、大きな花火の音を聞くことだった。まわり中の高揚につられて、私はわくわくしていた。いつの間にか本気で花火を見たくなってしまったらしい彼の待ち遠しそうな横顔もなんだか若やいで見えた。
 私の内にはいつの間にか健やかな気持ちがよみがえってきているように思う。それは、友達を亡(な)くし、日常に疲れてしまった私の心が体験した小さな波、小さな蘇生(そせい)の物語にすぎなくても、やっぱり人は丈夫なものだと思う。こんなことが昔もあったかどうか忘れてしまったが、ひとり自分の中にある闇と向き合ったら、深いところでぼろぼろに傷ついて疲れ果ててしまったら、ふいにわけのわからない強さが立ち上がってきたのだ。
 私はなにも変わらず、二人の状態もなにひとつ変わってはいないけれど、こんな小さな波をくり返しながら、ずっと彼といたいと思った。とりあえず今は、いちばんいやなところを通り過ぎたと思う。なにがそれなのか、はっきりとはわからないのに、そんな気がする。だから、今ならば他の人を好きになることさえできるかもしれない。
 ――でも、多分しないだろう。私は、今、横に立つ背の高いこの人と、生き生きとした恋を取り戻したかった。大好きな人と。すべてをこの細い腕、弱い心のままでつなぎとめたかった。これからやってくるはずの雑多でおそろしいたくさんのことをなにもかも、私の不確かな全身でなんとか受けとめてみたかった。
 ああ、なんだかついさっき目が覚めたばかりみたいで、なにもかもがおそろしいくらい澄んで美しく見える。本当に、きれいだった。夜をゆくたくさんの人々も、アーケードに連なるちょうちんの明かりも、少し涼しい風の中に立ち、待ち遠しそうに真上を見ている彼の額の線も。
 そう思うと突然、なにもかもが完璧(かんぺき)すぎて涙がこみ上げてきそうになった。見回す風景の中の、目に入るすべてが愛しく、ああ、目を覚ましたのが今ここでよかった。いつもは車がいっぱいのこの通りがこんなに広い空地になった、真ん中の所に二人で立ち、花火を待ち、うなぎを食べて、一緒に眠ることのできる今夜を、こんなにはっきりした精神で観(み)ることができて嬉しいと思ったのだ。

 まるで祈りのような気分だった。
 ――この世にあるすべての眠りが、等しく安らかでありますように。

 やがて空に大きな音が轟(とどろ)き、巨大なビルの陰にちらりと姿を見せた半分だけの花火が、まるで透かし模様のように空を一瞬、彩(いろど)った。
「あ、見たか? 今、ちらっと見えたぞ!」
 背の低い私を思いやってそう言った彼は、それでも子供のようにはしゃいで私の肩を揺すった。
「うん、見えたわ。なんだか小さくてかわいいね。レースのコースターみたい」
 私は言った。透明な夜空に突然湧(わ)いてくるような小さな光の束が、とても花火とは思えないくらいに遠くに見えた。
「ほんとだ、なんか、花火のミニチュアみたいだ」

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●教材作品は読んでおいてください。
●課題作(原稿用紙2枚《ワープロの場合、A4用紙をヨコにしてタテ書き印字》)を、講座日の3日前までに、担当講師宅へ郵送のこと。提出作品はコピーして、皆で読みあいます。(一般の方などで講師宅の住所がわからない場合は、事務局まで問い合わせてください)