夜・文章講座、第一回課題の例文。2009/10/20 17:09

夜・文章講座――ストーリーテリングの動性を仕込むⅡ/講師 葉山郁生(作家)
第一回 11月16日(月)午後6時30分~
●内容=自己と他者、主人公の複数の三角形
●教材=夏目漱石『それから』十章まで(新潮文庫他)

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●課題=五感の記憶、視覚以外の聴覚、触覚、味覚などのうち、一つの感覚で過去を構成するエッセイ

 人間の五感のうち、視覚は知覚と結びつき、その人の物の見方・感じ方にしばられがちです。見えているのに、自分の見方に入るものしか見ないというわけです。小説などを書くとき、絵を書くこと(情景描写、人物の外面描写)が、枠組としては大事ですが、今回、出来れば、視覚はほどほどにして、音と声(聴覚は他者や世界に開かれる)や触角その他で課題文を書いて下さい。
 例文として古井由吉のエッセイ(触覚その他)、フローベールの小説の一部(触覚)、音の記憶を書いた小説の一部をあげておきます。

(一)古井由吉「歯をくいしばる」
 人の口もとから顎を見れば、その人のことがいろいろとわかる、と知人の歯科医が酒の席で言った。さすが本職(プロ)の眼は違う、と私は早くも感嘆して、その、僕の場合は、どうです、とよけいなことをたずねた。知人は私の顎のあたりを眺めて、ああ言われるな、と私が思うとはたして、歯のすりいり方が人よりもはげしいでしょう、歯圧が強いようなので、と答えた。まだ五十手前のことだ。
 歯圧とは歯をかみ合わせる力のことである。それまでにも歯の治療に通うたびに、あなたの歯の琺瑯(ほうろう)質は固くて良いのだが、なにぶん歯圧が強すぎる、と医師に言われたものだ。私の顎はたしかに太い。おそらく重いのだろう。しかし、辛抱するほうだとは思うが、事ある毎に歯をくいしばるような性分でもない。緊張や忿懣はなるだけ出し抜き出し抜き生きてきた。寝ている間に歯ぎしりする癖はない、と家の者も言う。
 しかしまた考えてみれば、歯をくいしばることの多かった幼少期であったようにも思われる。空襲の恐怖のきわまった時に、子供が歯をくいしばって堪えるということはあっただろう。戦争の終った後も、子供は勉強をしていればよいというものではなくて、あれこれ力仕事を親に言いつけられた。手にさげた芋一貫目の重さを今でも覚えている。誰しも栄養不良の時世だった。一貫の重荷に振りまわされるように足をよろよろと運んで、坂道にかかる時、思わず歯をくいしばっていたかもしれない。
 薪割りの仕事があり、あれは野球と一緒で、インパクトの瞬間に力を集中させるのがコツなのに、子供の腕ではそうすっぱりとは行かない。斧やら鉈(なた)やらの刃が半端に材の内にくいこんで、文字どおり抜き差しならなくなり、どうにかしようとムキになればなるほどよけいな力がこもって、「事態」をいよいよ悪くする。
 釘を打つ。あれも始めの打ちこみがまともに利けば、あとは澄んだ音が立って、釘はすなおに入っていく。金槌だか釘の頭だかが、鳥ではないが、さえずる、とこれを言うらしい。歯をくいしばっているようでは、なかなか鳴いてくれない。
 高年に入ってからも、自分が歯をくいしばっているその現場を、自分で押さえてあきれる折りがある。よりによって、仕事の最中である。と言えばいかにも苦闘しているかに聞こえるが、そうではない。むしろすっかり行き詰まり、筆も投げ出して、溜息ばかりをついている、と自分では思っている時に、気がついてみれば、歯をくいしばっている。茫然として歯をくいしばるとは、いかにすぐれた役者でもこの演技は難しかろう。
 構想どおりに筆が運ぶなどということは、私の場合、絶無、たえてない。感興に乗って筆がはかどるということも、まれにあることはあるが、後で読み返すと、どうもよろしくない。いずれ行きつ戻りつ、とにもかくにも前に進んでいることが不思議なぐらいなものである。とりわけ、短い作品でも途中三度ばかりは、先の道が見えなくなるばかりか、ここまで来た道すらたどれなくなる。力を抜いて、次の言葉を待つよりほかにない。待つのが仕事だと思っている。
 ところで、対局中の棋士は、長考の間、思わず歯をくいしばることも、あるのだろうか。

(二)葉山郁生「物を見る感性とエロス」(その一部)
 エロス的な感受性は、ここで簡単に男と女、自己と他者の心身における主客融合である。自分の自意識や存在が相手の眼差しや身体、肉感性に包まれた心の内に溶けること。一例、『ボヴァリー夫人』の「彼女(エンマ)は手をゆだねた。レオンは彼女の手を指のあいだに感じた。すると自分の全存在が、骨の髄までこのしっとりした掌のなかに吸い込まれるような気がした」。相手も逆にそうで、互いに他の内に、あるいは他の第三の何か美しいものや崇高なものに消え去ることであり、その圧倒的な感情の高まりのうちに五感も融合している。
 男女のエロスがこういうものだとしたら、生々しく生きて、深く自身の生とこの世界を感じることが(何かを感じることは幾分、その対象と一体化することであり、五感全体をもってそれに触れることだから)、エロス的であった。

(三)文校生の作品(その一部)
 ふと目覚めた瞬間、意識にのぼってくる世界、美穂はそんなもの憂いひとときに聞こえてくる音が好きだった。今しがたまで味わっていた夢の感情が、もうろうとしてきて、自分であるという意識がまだ半分眠っている。そして半分の意識だけが、眠りの充満した部屋の中をさ迷い始める。自分がどこにいて大人なのか子供なのかも分からない。靄のかかった空間をさ迷っている思いだ。その時遠くから聞こえてくる風の音、小鳥のさえずり、電車の通り過ぎる音、それらは微かに薫ってくる花の香りに似ていて、美穂の心に安心感を与えてくれるのだった。
 がたん、がたん、ごとーん、私鉄の電車の音で目覚めていた大学時代。あのころ、時計を見ながらもう何分布団の中に居られるのだと、近くの踏み切りの警報機の音を聞きながら、枕に顔を埋めていた。すると枕元のシーツから、陽だまりを思い出す懐かしい匂いが漂ってきたものだった。その甘味な心地よい朝のひと時。
 ドアの開く音、廊下を小走りに歩く友達のスリッパの音。そこで美穂もしぶしぶベッドから起き上がり、慌ただしい食事と化粧を始める。学生時代の下宿の朝はいつもこうして明けていた。
 目覚めた時、耳に響いてくる雨の音は、美穂の記憶にいろいろな朝を運んでくれた。田舎の家の重い雨戸を繰ると、庭の紫陽花や、山茶花の葉っぱにザアザア音をたてて流れる雨足。遠くの水田から蛙の合唱が響いてくる。美穂は憂鬱な一日の始まりを予感するのだった。レインコートを着て、ヘルメットをかぶり中学校へ向かう。顔に流れ落ちる水滴で目が開けられなかった自転車通学、水滴が首筋に流れ込んで思わず身震いしていた朝。しかしその雨が運んでくれる、いつもとは違うドラマが好きだった。
「世界中の朝は全部、きっと時間と場所を越えて繋がっているのだ」と、ある本で読んだことがあるが、美穂は今そのことを強く実感している。なぜならいろいろな朝の向こう側から響いてくる音や雰囲気は、どこか神聖で爽やかなのだ。あれはいったいどこから来るのだろう。とても微妙で、心静かにしていないと味わえないものだ。朝は夢の世界(眠りの世界)と現実が深く繋がっていて、ほんの一瞬向こうの世界からのメッセージが届いているのかもしれないと思う。

●教材作品は読んでおいてください。
●課題作(原稿用紙2枚《ワープロの場合、A4用紙をヨコにしてタテ書き印字》)を、講座日の3日前までに、担当講師宅へ郵送のこと。提出作品はコピーして、皆で読みあいます。(一般の方などで講師宅の住所がわからない場合は、事務局まで問い合わせてください)

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